ベランダから雨漏りがすると言うことで、見に行きました。
古いお客さんからの紹介です。
築40年くらい。
90代のおばあちゃん。
雨漏りをとにかく直す
モルタルやアルミのベランダではありません。
ベランダに防水シートが敷いてあり、それが破けていました。
その下はコンパネという材木。
ほんとうはシートをはがして板を張り替えるべきなのだけれど。。。
そのベランダの下の部屋にベッドがあって、そこで寝ているのだということです。
紹介してくれたお客さんは、すぐ近所なので、ひとり暮らしのここのおばあちゃんを何かと気づかっています。
そして、「あと5年ももてばいいのよ」と小さな声で耳打ちしました。
聞くと、セールスの人がきて、大掛かりにお金をかけて直すように言われ、何度も来たということでした。
「うーん。どうしましょうか」
「エボシさんなら…。なんとかして」
必要とされ、必要なことをする仕事ほどやりがいのあるものはありません。
大掛かりにすると金額がかさみます。
「シートを補修して雨が入らないように何とかやりましょう」
「そういってくれると思った」と、紹介してくれたその人は私の肩をぽんと叩きました。
よーしと私の気持ちに火がつきます。
単純な私は、えいやっとタオルをねじり頭に巻きました。
電信柱のカラスがそれを見ていました。
心配だから、近所の方が入れ替わりやってくる
敗れた箇所をコーキングで補修し、頑丈な防水テープを貼ります。
それから厚いゴム板を貼り、その周囲にテープを貼り、さらにテープのはじをコーキング。
とにかく、なんとかする。
近所の奥さんたちが、おばあちゃんが心配で何人も見にきました。
最近は、セールスや信用できない業者もいるから、ここのおばあちゃんを心配しているんです。
なんかいいなって、温かくなりました。
ねじりはちまきを見て、かっこいいわねえと言われたので、「大工はこれがネクタイでこれをすると気持ちが締まるんです」と答えました。
なるほどねえと頷いていたので、「昨日少し飲み過ぎたから」と言うと、みんな大笑い。
なじみのお客さんが、この人は大丈夫だというと、安心して帰って行きました。
「コーヒーを淹れるから、うちで一服して」
「私がお金を払っておくから」
そのお客さんは、おばあちゃんを気づかい、心配し、そして私にもとてもよくしてくれました。
それも一生懸命そうしていました。
そして、楽しそうに、うれしそうにしていました。
誰かのために何かをすることに喜びを感じることが、できる人だから。
ここに、こんな近くに愛があったじゃないか、と私は思いました。
思いやり。。。
気づかい。。。
心配り。。。
おたがい様。。。
そういうものに触れることができるから、この仕事を続けていけます。
仕事をしながら、そういうものに触れ、学び、癒され、自分もそうありたいと願います。
胸がじんとして、不覚にも涙目になっちゃったから、あくびをしたふりをしてごまかしました。
愛はいたるところにある
おばあちゃんは、おそらくはよくわかっていなかったろうけれど、よかったよかったと手を叩いて喜んでくれました。
なじみのお客さんは、ありがとうを繰り返してくれました。
思いやりは愛のひとつの表現です。
愛は共有され、共鳴して、そして延長していく。
温かい人たちの中で仕事ができる喜びを、帰りの車でしみじみ感じました。
困ったに対して向き合って、必要なことをして、その対価としてお代を頂くのが私の仕事です。
街角に、愛はあります。
悩んでインドに何度も行ったけれど、禅宗の寺に通い、協会のミサに参加し、何かを求めていたけれど、目の前に、すでにあるんだとわかりました。
仕事は愛の表現で、ロマンで、ヒマラヤや寺や協会に行かなくてもすぐ近くにあったんだと教えてもらえました。
暮らしの中にも、いつもあって、忙しいから気づかないだけなのかもしれません。
太陽や風や大地が、宇宙の愛だとしたら、街の中には人の愛がたくさんあるのでしょう。
私が学んでいるインドのヨーガや奇跡のコースは、「愛はすべての人が完全な形ですでに持っている」と断言しています。
そんなことを考えていたら、道を間違えて辻堂の方までいっちゃいました。
私は頭をごちんと叩きました。